キチガイにことば

◆キ●ガイ大いに語る

みにくいアヒルの子と分類論
 komichi さん,今回はちょっときつい自己否定を書き込んですみません.私の場合,医者でありながら患者でもあるという立場に立たされ,年々後者の比重が大きくなるために,患者側の論理(何だか本多勝一ふうですな)が何でこんなにわがままなのか……を考えることが多くてねぇ.精神神経科の教科書にもこの「人間関係」の分類は出てくるんですけど,幾つか気をつけなければならない点があります.

 例えば,池田清彦『分類という思想』(新潮選書, 1992)にこのような記述があります.

 人はある分類(またはイデオロギー)を信じると「循環論」にはまり込む危険性がある.「循環論」とは,ある基準に従って分類群を分けておいて,引き続いて基準選択の正当性をその分類群に求めること,です.つまり,一度体系を作り上げると,人々はその体系を通してモノを見るようになり,人々の認知パターンは体系整合的になる,というものです.分かり易いのが「共産党中央による民青の思考づくり」「統一協会による原理運動の浸透」などがそうです.体系を作ってその中に未成熟な若者を押し込める,金太郎アメ的方法です.

 ところが人間が分類の基準としてはっきりとした形質を探そうとする時,分類者自身が形質を選択する人間の認知から自由でないことに気付きにくいのである.しかも,形質というのは無数に取れるし,仮にこれらが完全に人間の認知パターンから自由であるならば,すべての対象は同じくらい似ている.よって「循環論」が成り立ち,人はその認知パターンの呪縛から逃げられなくなる,ということです.

 さらに,渡辺彗『知るということ――認識学序説』(東京大学出版会, 1986)では「みにくいアヒルの子の定理」と題し,人間の認知パターンから独立した客観的な性質を悉く選んで,それらを等価とみなす限り,分類という営為は成立しない.例えば政治的なセクトがたくさんあって,もしそれらを十把一絡げにして「過激派や,怖いわ」とレッテル貼りをした時,政治セクトって何ですか?という政治に対する無関心状態を無為に作り上げることができるのです.私もノンセクトで反原理やってた人間なので,渡辺氏のこの本には頭を殴られた感じでした.

# 今日は何だかガクモン的な話ですみません.m(__)m でも,みにくいアヒルの子って,主人公を人間にしてしまうと結局は自分捜しの話で,見つけられたら誰もがすばらしい白鳥になれますよ,という,マンガ家のひかわきょうこの説もある(笑)

ただ、今回の「弱者と呼ばれる人々にも問題がある」という説には、こちらも考えさせられましたね。
さらに、自分自身にも思い当たることがありまして……正直、耳の痛い話でもありました。

 恐らく,ここに書き込んでる皆んなが頭を殴られたような気がしたかも知れません.要するに「弱者」自体が分類され小分けられているのにも関わらず,それに気付いてない,いうことでんがな.

# どうも自然科学やってる人間が哲学を語り出すと,数学の証明みたいになってあかんわ(笑)

いつも"●●という「ネットゴキ」は「ネットゴキ」のような性質を持っているから「ネットゴキ」"みたいな議論をしている人がどの口で循環論を語るんだかwww。しかもまた、微妙な本の選定をしていて・・・いや、高学歴な人の考えることは違いますね。