単なる能力の限界

ヴィトゲンシュタインを使って理性の限界について語ることがなんだか恥ずかしいのはなぜだろう

と考えていたのですが(ヴィトゲンシュタインについては、清算を済ませていないため、どこかで一度関連の文献を読み倒す必要はあるだろうが)、イチローを例にとればわかりやすい説明ができると思われましたので、そうさせていただきます。
といっても、イチローには陰鬱な哲学者の面持ちがある・・・などと言うつもりはございませんし、イチローの話すことが哲学的である、などと言うつもりもございません。イチローの話したことを「テツガクテキ」に解釈するなどというつもりもございません。
では、何が言いたいのかと申しますと、正確な字句までは覚えていないのですが、確かイチローは「俺が凄い打者だといっても三割強しか打てないんだから打てない球は7割もある」というような、野球の常識をある種根本的に無視するような発言をしていました。この発言は打者の限界を的確に指摘したかのような重みのあることばだと思われますが、じゃあ、このことばを二軍で三割打っている人間ないし草野球で三割打っている人間が口にしたらどうでしょうか。恥ずかしいですね。とっても恥ずかしいですね。
だって、明らかに超えるべき壁があるのですから。
そんな妄言吐いているくらいだったら、努力して超えろよって感じです。ヴィトゲンシュタインにしても同様なのです。ヴィトゲンシュタインの『論考』の最後の台詞は、「俺は哲学的な分析を終わらせた。もう哲学的分析のような梯子は蹴り飛ばしていい」というようなものですが、一級の哲学的業績(『論考』のそれまでの部分)を残しているからこそ、このことばには重みがあるのでありまして、決定的なところまで考えた経験もなく、哲学的分析を終わらせるところまで業績を積んだわけではない人たちが言うと・・・単なる勘違いにしかならないのは明白です。単なる思考停止、神秘主義的気分です。ヴィトゲンシュタインを真似てみせるのは、かっこいいヒーローの物まねをするのと同じ個人崇拝です。ヒーローにあこがれ、ヒーローの物まねをすることはパンピーらしくて微笑ましい光景であるとともに、大衆的で、およそ知識人らしくない行動です。たとえば、経済学のことをほとんど何も知らないのに、ヴィトゲンシュタインを引き合いに出してきて語るなどというのはほとんど無様な個人崇拝です。誰かいましたかね、そんな人。
それはさておき、ヴィトゲンシュタインがその後、終わらせたはずの哲学的分析を自分自身で再開したところをみると、そう簡単には哲学的思考は終わらなかったと思われます。限界について語る以前に、語るべきことは多いわけです。ヴィトゲンシュタインのような有能な人間にとってさえそうなのですから、ブログで小汚い文章をのせている大衆にとってはなおさらだと思いませんか?私はとても謙虚ですので、そのように思います。

■だるい

まなざしの快楽はチンカス級。読めば読むほど味わい深いチンカスぶり。すばらしい。